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利休はなぜ切腹を命じられたのか?娘との関係が原因?

天正19年2月28日、

この日の京の町はひどい大雨で、

雷が鳴り、大あられが降っていたといいます。
利休はその日、京都の自宅、

聚楽屋敷にて70歳という高齢で切腹して果てました。
釜をかけ、

切腹を見届ける検視に茶を振舞ってから切腹をしたという利休の姿に、

茶の湯に対する深い思いを読み取ることができますが、

町人の身でありながら、なぜ利休は切腹をすることになったのでしょうか。

大徳寺山門事件

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大徳寺の山門事件は、

利休が寄進した山門の楼閣に対する謝意として、

大徳寺が利休の木像を作らせたことに始まります。

 

その利休像に頭巾をかぶせ、杖をつかせ、

雪駄を履かせて山門に置いたことが秀吉に知れると、秀吉は大激怒します。

大徳寺の山門は高貴な身分のかたがたがお通りになることもあり、

その頭上に、利休の立ち姿、

しかも雪駄をはいたままの像を置かせたことは無礼、

不遜として大問題へと発展していきました。

 

大徳寺の長老たちも罪を問われ磔になるところを、

秀吉の母である大政所と、

亡き弟秀長の妻の命乞いで助けられています。
利休もはじめは磔にかけられるところ周りのとりなしで切腹に変更になり、

その代わりと言っては何ですが、

利休の木像が磔に処せられました。

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長老たちが命を助けられたなら、

利休も死ななくてもよかったのでは、

と思うところですが、

まさに利休にも命が助かるチャンスがあったと言います。

堺に蟄居していた利休に、

内々に「大政所と北政所に頼んで利休が秀吉にお詫びをすれば赦されるだろう」

と助言があったにもかかわらず、

利休は首を縦に振りませんでした。

「御女中がたに命乞いを依頼したとあっては無念である」

というのがその理由のようです。
現代ではそんなプライドよりも命のほうが大切だろうと思うのですが、

やはりこの時代の男性としては、

女性に命乞いを頼むことが恥であったのでしょうか。

生き恥をさらすより死を選ぶような

価値観が生きていた時代でもありましたが、

利休と秀吉の意地の張り合いのような部分もあったのかもしれません。
結局利休は切腹をして果てますが、

その罪状は、この利休像の件だけではなかったようです。

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茶道具を高値で売る

利休の死の原因としてよく取り上げられる理由のひとつです。
その頃、利休の名声は頂点にあり、

利休が作った茶道具を高値で買ったり、

自分の持っている古い茶道具と交換しても欲しがる人がいました。

しかし利休のその行為は、

安物を高値で売りつけ

価値のある道具と交換させる「売僧の頂上」と取られ顰蹙を買っていたようです。

利休はもともと堺の商人の生まれですので、

仕入より高く売値を設けることや、

欲しがっている人に自分に有利な条件で売ることに

罪悪感も恥もなかったと思います。

現代人から見ても、

利休の行為はなんら問題はないように見えますが、

利休が接していた武士の世界では、

ただ金をもうける卑しい行為に見えたのでしょうか。

利休と秀吉の茶道の価値観の違い

侘を追求する利休と、

豪華で派手好きな秀吉との

茶道における価値観の違いが利休の死につながった。
これもよく利休の死の理由として挙げられる説のひとつです。

けれども、利休は決して

自分の価値観を絶対のものとして

人に押し付けるような人ではなったように思います。
利休は弟子が自分の真似をするお茶を嫌い、

むしろ自分とは違った創意工夫で行う茶の湯をほめていたようです。

そして、黒い茶碗が嫌いという秀吉に対しては、

無理やり黒い茶碗を押し付けるようなこともなく、

さりげなく違うお茶碗に差し替えたこともあったといいます。

利休が嫌ったのは、

相手の身分によって対応を変え、

茶の湯本来のありようを破ることではなかったでしょうか。

秀吉の茶の湯に対する価値観も、

黄金の茶室や黒の茶碗が嫌いといった話につい惑わされてしまいますが、

秀吉の茶の湯に対する姿勢は利休と正反対ではなく、

むしろ同じ価値観であったように思います。

利休の死後も、

利休流の茶を行っていたり、

利休好みの茶室を作っていたり、

利休の侘び茶を踏襲しています。

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秀吉への反逆?

この説は、利休の最後の茶会が

徳川家康一人を招いてのものだったことに起因し、

秀吉の死後、家康が天下を取った史実を踏まえて作られたもののようです。
秀吉を亡き者にして利休が利益を受けるかどうか、

秀吉の下にいたままで利休が不利益をこうむることがあったかどうかを考える必要があります。

朝鮮出兵への批判

朝鮮出兵への批判を利休がしたかどうか不明ですが、

朝鮮出兵への批判は秀吉の周りの多くの人々が行っていたようです。
正親町天皇や公家、母親の大政所、

正室の北政所、徳川家康、前田利家、浅野長政と錚々たるメンバーです。

利休がもし朝鮮出兵を批判をしていたとして、

利休だけが秀吉の怒りを買い切腹となるのもおかしな話です。
仮に利休が批判をしていたとしても、

それが直接の理由ではないような気がします。

秀吉が利休の娘を欲しがった

この説もよく言われている理由のひとつです。
秀吉が鷹狩りの後、

道の脇に控えている30歳ほどの女性をみそめて、

それが利休の娘と知り側室に欲しがったのを、

利休がつっぱねたのが秀吉の不興を買ったというものです。

利休には娘が三人おり、

そのうちの万代屋宗安の後家であった娘がこの話の女性といわれています。
江戸時代のはじめにはすでにこの話が書かれていたようで、

利休の切腹の理由ではないとしても、

なにか似たような出来事があったのかもしれません。

「南方録」にも、利休の娘が秀吉に望まれ

それを苦に命を絶ったという話が載っていますが、

利休より100年後に書かれたもので、

利休の秘伝書を元にしたといわれていますが、

史料としては不確かなもののようです。

秀吉が蒲生氏郷や

細川忠興の妻にも手を出そうとしたがうまくいかなかった、

という話もありますので、秀吉のこの手の話はにわかには信じることはできませんね。

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利休の罪まとめ

利休の死にはいくつかの説があり、

これが原因という確かなものがありません。
様々な出来事が、

少しずつ秀吉と利休の間に溝を作って行ったのか、

利休を快く思わないだれかの讒言か、

利休の態度が以前よりも増長していると取られた可能性もあります。

また、いったん言い出したことに

引っ込みがつかなくなった秀吉に対し、

利休も意地を張ったことで、

最悪の結果になってしまったのかもしれません。

利休の罪が、いったいどれほどのものだったかは

もう知る由もありませんが、

ただ、秀吉が利休の死後も利休の茶を忘れなかったこと、

そしてわずか3年でその「罪」を赦し、

千家を再興させたことがすべてを物語っているような気がします。

 

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