中村宗哲は、千家十職の塗師の家で
代々受け継がれる当主の名前です。
中村宗哲と千家の関係は古く、
利休の孫の宗旦の時代にさかのぼります。
歴代の中村家当主はどんな人たちがいたのでしょうか?
初代は千家と親戚
初代は、1617年に生まれました。
隣の家、塗師の吉文字屋に
宗旦の次男の甚右衛門(のちの一翁宗守)が
養子に入っていました。
甚右衛門は千家に戻ることになり、
娘を隣の家の中村八兵衛に嫁がせ、
併せて吉文字屋の稼業も譲りました。
この八兵衛が初代の宗哲です。
初代は宗旦の厚い信頼を受けており、
宗旦を取り巻く文化人たちと
深い交流を持ちました。
宗旦四天王の一人、藤村庸軒との友情は深く、
庸軒の好みのものを多く手掛けています。
七事式の制定に携わった3代
2代は短命に終わりましたが、
その子の3代宗哲は長寿で、
千家3代と深いかかわりを持ちました。
宗匠からの信頼も厚く、表千家7代如心斎、
裏千家8代又玄斎などとともに、
茶の湯の修練の為の稽古法「七事式」の制定に
茶人として携わっています。
また、3代は、基準となる利休型を初めとして、
代表的な棗の標準型を正確に分類しました。
如心斎の制定した「利休型12器」、
さらに当時用いられていた様々な好み物を加えた
「如心斎判32器」を制作し、それぞれの茶器の寸法や形は、
今も中村家で厳密に守られています。
優美な作品を遺した4代~7代
4代は、3代とともに宮中の御用も務め、
後桜町天皇の茶具を制作しました。
5代は、32歳の時に天明の大火にあい、
塗り物の寸法帳などを自ら背負って避難しましたが、
中村家に伝わる多くの貴重な資料類を失ってしまいます。
この苦い体験を契機に、3代の未亡人から家伝聞書きを
まとめるなど、中村家の記録を改めて整理しました。
6代は、早々に弟に家督を譲った為、
残された作品は多くありません。
7代は、技量が歴代随一と言われています。
文化文政の頃、町人文化が花開く時代に、
その要望を受けて、緻密で華麗な蒔絵を施した棗など、
華やかな作風を打ち出しました。
時代の変化に対応した明治以降の宗哲
8代の作風は、薄手の器型に清楚な蒔絵を施しているのが特長で、
優美な作品を多数残しています。
明治維新後は、いち早く洋服を着るなど
積極的に時代の変化を受け入れ、
フィラデルフィア万博に出品し銅賞を受けました。
9代は、小学校の教員を勤めていましたが、
8代の末娘の婿に迎えられました。
婿入りしてから塗り物を修行し、
明治期の混乱の時代の中で
非常な苦労をしますが、
シカゴ万博に出品するなど活躍しました。
10代は、女性で、8代の娘、9代の妻です。
長男が別居した為、次男が稼業を継ぐまで家督を預かり、
「尼宗哲」と呼ばれました。
技能、人柄において宗匠方の信頼を得て、
千家の好み物の制作も引き継ぎ、
多数の作品を制作しました。
11代は、大正14年に家業を継ぎ、
昭和60年に隠居するまで、
太平洋戦争をまたぐ長い期間を宗哲として過ごしました。
華麗な蒔絵をはじめとして、
現代的で華やかな多種多様な作品を遺しています。
二代続いて女性当主が活躍
12代は、11代の長女で、千家十職のうち、
初めて公式に当主を継いだ女性となりました。
夫は陶芸家の3代諏訪蘇山で、
夫婦で芸術活動に勤しみました。
茶道具以外にも、現代の暮らしに活きる漆器などを多数製作し、
工芸家としての高い評価を得ています。
当代、13代も女性。12代の次女で、
平成18年に宗哲の名前を襲名しました。
代々の伝統を受け継いだ茶器を作りつつ、
お母様のように、女性の感性を活かした
新しい漆器の世界を開拓していくことが
期待されています。
伝統文化の世界で女性が活躍する姿を観るのは、
現代の女性たちの励みになりますね!
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