美術館に出かけると、家元が銘を付けたり所持していた茶道具が
数多く目に止まります。
箱書きの花押を見て「これはいつの時代の宗匠に所縁のもの」と
わかれば、より一層茶道具鑑賞を楽しめますね。
表千家歴代の家元の名前と略歴、是非、覚えておきましょう。
表千家の始まり
千利休の後、千家は少庵、宗旦と続きました。
宗旦の隠居の際に、3代宗旦の三男である江岑宗左が、
千家の直系として茶室「不審菴」を受け継いだことが
表千家の始まりです。
尚、四男の仙叟宗室、次男の千宗守が、それぞれ、
裏千家、武者小路千家を起こし、
表・裏・武者小路の三千家が成立しました。
4代江岑宗左
4代江岑宗左は、1642年に紀州藩主徳川頼宣の招きで
紀州徳川家に茶堂として仕えました。
以後、明治維新まで、表千家の歴代家元は紀州徳川家に仕えました。
利休の茶の湯に関する宗旦の談話を記した「江岑夏書」は表千家に伝わり、
現代において、貴重な茶道の研究資料となっています。
5代 隋流斎
宗旦の娘クレの子供で、叔父である江岑宗左の養子となり
表千家を継ぎました。
隋流斎が遺した覚書「隋流斎延紙ノ書」は
茶道史の重要資料と言われています。
6代覚々斎
隋流斎の甥で、12歳のころ隋流斎の養子となり、
14歳で表千家を継ぎました。
紀州藩主時代の徳川吉宗(頼方)は、覚々斎より茶の湯を学びました。
のちに、将軍となった吉宗は、唐津茶碗(桑原茶碗)を覚々斎に下賜しています。
7代如心斎
覚々斎の長男で、26歳で家元を継承しました。
三井家の当主八郎右衛門など富裕町人を大勢門弟として受け入れ、
以後、表千家と三井家との関係は深まります。
また、弟で裏千家を継いだ一燈、高弟の川上不白、3代中村宗哲らとともに、
新たな稽古の方法として「七事式」を制定しました。
さらに、如心斎は今に続く家元制度を整備したことでも
知られており、表千家中興の祖と称されています。
8代啐啄斎
8歳で父如心斎が逝去したため、叔父の一燈、
如心斎の高弟の川上不白らの援助を受けて、家元を継承しました。
1788年の天明の大火により、伝来の道具のみを残して
表千家の茶室はすべて焼失してしまいます。
啐啄斎は再建に尽力して、翌年には、利休居士二百回忌の
茶事を盛大に催しました。
9代了々斎
啐啄斎の娘の婿養子として久田家より迎えられ、家元を継ぎました。
風雅を愛した紀州藩主徳川治宝の庇護を受け、
1819年には、楽旦入とともに治宝に出仕し、偕楽園焼に携わりました。
現在の表千家の武家門は、治宝の不審庵への御成りの記念に
紀州徳川家から拝領したものです。
10代吸江斎
了々斎の甥で、久田家より養子に入り8歳で家元を継承しました。
了々斎は、治宝に皆伝を一時的に預けていたので、
吸江斎は治宝からその皆伝を受けました。
吸江斎は、了々斎に続き、楽旦入、永楽了全、保全とともに
偕楽園焼に従事しました。
11代碌々斎
碌々斎が家元を継承してすぐに明治維新を迎え、紀州徳川家の保護も失い、
表千家は苦難の時代を迎えます。
碌々斎は全国をまわり、茶道の普及に尽力しました。
また、茶道の新しいスタイルを模索し、
1890年には北野天満宮で初の献茶を行いました。
以後全国の寺社仏閣で献茶が行われるようになりました。
12代惺斎
父碌々斎の隠居に伴い、家元を継承しました。
1906年、失火により表千家の建物がほぼ消失した為、
惺斎はその復興に努めることになりました。
茶道衰退期ゆえ、全てを再建するまでには
7年もの時間がかかりました。
13代即中斎
惺斎の次男ですが、兄の早世により1937年に家元を継承します。
第二次世界大戦により世間は混乱した時代を迎えますが、
1942年には門人の為の全国組織である「表千家同門会」を設立しました。
戦後も千家の伝統を守りつつ、茶道の普及と現代化につとめました。
14代 而妙斎
当代の而妙斎は、1980年に襲名し、現在に至っています。
尚、長男の猶有斎が15代を継承するべく、若宗匠として活躍しています。
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